母の日にエールを!――障害児を育てるお母さん仲間へ

妻(yuheimama)です。母の日といえば、子どもがお母さんに「いつもありがとう」と感謝するのが定番ですが、今年は障害児を育てるお母さん仲間に、私の体験談を交えながら、最近読んで共感した本の紹介文を贈りたいと思います。

まずは、生活全般が全介助の重度障害児(執筆当時)の母、児玉真美さんによる『私は私らしい障害児の親でいい』(ぶどう社、1998年)です。児玉さん夫妻は医師の勧めもあり、途中から施設に預けて養育し、お子さんはすでに成人していらっしゃいます。

私は私らしい障害児の親でいい

私は私らしい障害児の親でいい

日頃、「こんな子に育てたい」「こんな子育てがしたい」という親心を捨て去って、悠平仕様の「前向きにあきらめる子育て」をしようと模索している私も、大人顔負けの会話をする小学生や、大人の付き添いなく遊んでいる子どもたちを見ると、どうしようもない悲しみや胸苦しさを感じることがあります(「前向きにあきらめる子育て」の講演についてはコチラ、書籍についてはコチラを参照ください)。まだまだ障害受容が不十分なのかと、自分の未熟さを責めることがあったのですが、児玉さんが、愛しているのもしんどいのも真実で、どちらも認めていくことからしか強さは生まれてこないと書いているのを読んで、とても励まされました。

障害のある子を持つと、子育て要素にプラス、療育、生活介助も担うことになり、主たる担い手になる母親は「自分、個人」である以前に「障害児の母親」であることを要求されることが多いと思います。私自身、そのことによって追い詰められ、うつ病になった後には、何度も「一人になりたい」と口にしていました。児玉さんのお子さんは全介助が必要で、頻繁に体調を崩し、24時間態勢で介護にあたらなければなりませんでした。そうした経験から児玉さんは、お子さんの介助・介護にすべての時間を使わなくてはならない状況を、母親である以外のいろいろな感情や思考を持っている自分が「窒息しはじめる」「わが身の中の修羅である」(p48)と表現しています。そのため、肉体的には疲れ果てていても、そこから離れられる仕事は精神的な支えになっていて、失いたくなかったとも述べています。私も個人としての時間がない生活では、どんなに悠平がかわいくても、少しでも子供から離れて自分の時間が持ちたかった。離れることができるなら、満員電車でもみくちゃにされる通勤時間でさえも、うらやましくて仕方がありませんでした。自分の時間を持てるかどうかは、親のメンタルヘルスに直結する問題だと思いますし、就労など時間の使い方の自由度は今後の課題であると思います。

子どもに障害があることによって、就労も含めて「普通の生活」「頑張れば何とかなる生活」がままならない母親たちが支援を求めるのは、まずは福祉の窓口ではないでしょうか。児玉さんは「フツーの日本人である私たちが社会に向かって、自分の苦しさとか人間らしい生活をしたいという欲求を訴えるには、天地をひっくり返すほどの頭の切り替えが必要になる。社会のほうでも、苦しい人が苦しいと声を出すことを当たり前だと思っていない。苦しさに黙って耐えている人が美しいと思っている。まず、この、人の痛みに美意識を当てはめることを、福祉や医療や教育から排除すべきだと思う。そして、苦しいところに閉じこもっているしかなくなっている人に対して、苦しいと言っていいんだよ、とそこから引っ張り出してあげることが、福祉の根っこになくちゃいけない。それはやっぱり、人の意識じゃないか。そんな気がする」(p134)と記しています。「そうだよね〜」と私はいたく共感してしました。というのも、心身が悲鳴をあげている状態で、勇気を出して相談したのに、行政の方から「○○のお母さんたちは、自分たちで△△を立ち上げた」と、親自らが行動を起こしたエピソードを聞かされたことが複数回あったからなのです。「あなたももっと頑張りなさい」と励ますつもりの言葉だったのかもしれませが、限界ギリギリだった私は「これ以上、どう頑張れというの?」と、余計につらく切ない気持ちになりました。福祉担当とのやり取りでは、「助かった〜」と思った経験もあれば、「なんでやねん!」と怒りたくなったこともあるのではないでしょうか。福祉窓口とは、これからも長い付き合いになると思うので、自分の考え方と福祉のあり方・対応については、できるだけ冷静に考えていかなければならないと思っています。

ここまでに書いたことには、「障害受容」「親として、個人として」「福祉・社会との関係」という視点があると思います。この3つの視点を持つ本として、重度の自閉症で知的障害のある30代の次男と暮らす福井公子さんによる『障害のある子の親である私たち』(生活書院、2013年)もあげたいと思います。こちらの本は、内容の流用・転載不可でしたので、内容紹介は控えますが、図書館で借りて読んでいたら付箋だらけになってしまい、購入に至った経緯があります。こちらも実体験に基づいた説得力のある内容なので、興味を持たれたらご一読をお勧めします。

障害のある子の親である私たち

障害のある子の親である私たち


先天的な障害は、生まれ持った人と一生涯持たない人に二分されます。家族や友人・知人に障害児者がいなければ、一生、障害と無関係で終わる人もいるでしょう。先天的な障害児者と当事者家族は少数派です。社会を構成する人々の意識、そこから生まれる福祉のあり方が、ユーザーである障害児者の利便性よりも、人数が少ないから財源もこれくらいといった経済原理に重きを置かれると、障害児者と当事者家族は、しばしば不便な思いをし、障害がなければ持ちえた多くの時間、気力・体力を奪われてしまいます。

世界で141番目に国連障害者権利条約に批准した日本。障害児者をありのまま受け入れて、ノーマルな生活条件を提供するノーマライゼーションを実現していくために、「お母さん頑張ってるね」と美談で終わらせず、「もっと頑張っているお母さんがいるよ」と当事者家族に過度な負担とプレッシャーをかけさせないためにも、今後、福祉制度やサービスについて勉強しつつ、社会に何を訴えていくべきなのかを考えていこう――そんな問題意識を2冊の本から与えてもらいました。

目一杯頑張っているお母さんたちへ(もちろんお父さんもきょうだい児さんや支援者の方々にも)――今回の記事に何かしら感じ入る点があればうれしく思います。