備忘録:相模原障害者殺傷事件(1)

神奈川県相模原市の障害者殺傷事件から3カ月が経ちました。国は再発防止のため、措置入院のあり方などを検討していますが、障害者・家族・関係者らからは、優生思想や障害者差別に対する批判が上がっています。
事件を振り返り、今後の展開を考える上での手がかりとして、以下に私が目を通した範囲からですが、新聞・雑誌・ネット記事で気になった箇所を抜粋し、2回にわたって紹介します。前後の意味・内容の流れに反した抜粋の仕方をしないよう極力、配慮したつもりですが、疑問に思われた場合は出典を明記しますのでご確認ください。

【政治】
政府は障害者が標的にされたことに言及しませんでした。

麻生太郎副総理が事件当日の閣議後記者会見で「各閣僚から一つずつコメントをとるというような話にのるわけにはいかない」と語った
・(事件)発生2日後、首相は官邸に関係閣僚を集め、「何の罪もない多くの方々が命を奪われました。決してあってはならない事件であり、断じて許すことはできません」「再発防止、安全確保に全力を尽くす」と語っている。
・官邸関係者によると、首相のメッセージには障害者を標的にすることへの非難や共生社会の推進を訴えることも検討したが、「容疑者の身勝手な考え方を取り上げ、独り歩きする方がよくない」「障害者との共生を否定する人はほとんどいない」と判断し、大量殺人という行為への非難に絞ることにしたという。
・尾上浩二・障害者インターナショナル日本会議副議長=「優生思想を受け入れる素地を変えないと本当の意味での再発防止にならない。政治の沈黙は容認と受け取られる。『殺されていい命はない』。このことを社会全体で共有していく先頭に、政治や国会は立ってほしい」
(以上、朝日新聞・南彰「共生への挑戦 沈黙する政治」8月24日)

・尾上浩二=『殺されてよい命はない』というメッセージを社会全体で共有化していく一環として、優生保護法の被害者に対する謝罪と補償を政府は行うべきである。優生思想の問題に総括とけじめをつけることが、同様の事件の温床を絶つ上で重要だ(『現代思想2016年10月号』p76)

国連女子差別撤廃委員会は今年3月、優生保護法で強制的な不妊手術を受けた人への補償などを日本政府に勧告。ドイツやスウェーデンは同様の不妊手術を受けさせられた人に補償するが、厚労省は「当時の法に反し優生手術が行われていたとの情報を承知していない中での補償等は難しい」としている。(朝日新聞・長富由希子、高重治香「相模原事件が投げかけるもの・下」8月26日)

・「生きる意味がない」などという植松容疑者のゆがんだ障害者観はどこから生まれたのか。日本障害者協議会理事の佐藤久夫・日本社会事業大学特任教授は、現代社会に潜む「障害者は役に立たない」「お金がかかる」という意識を危惧する。厚労省の審議会ですら「国民の目線」と称して「障害者の要求は青天井」などの乱暴な批判が飛び交うという。(毎日新聞「凶刀・下 障害者施設殺傷事件1カ月」8月28日)

・藤井克徳・日本障害者協議会代表=偏見や差別といった心のありようを変えるには、政策から入る必要がある。日本は経済協力開発機構OECD)加盟国の中でも障害福祉分野への予算配分率が極めて低い。政策を根付かせるためにも見直すべきだ。(共同通信配信)/日本でも、この事件をめぐって国会で集中審議をするべきです。いまの厚労省を中心とした政府の対応は政治的パフォーマンスにすぎないように見えて仕方がありません。(ハフィントンポスト9月5日)

相模原市緑区の県立知的障害者施設「津久井やまゆり園」での殺傷事件を受け、黒岩祐治知事は六日の県議会予算委員会で、今定例会中に、共生社会実現に向けた憲章を制定する考えを明らかにした。(中略)黒岩知事は「ともに生きる社会を実現するための方向性を一日も早く示し、県全体で共有して全国に広げることが大切。早急に憲章の考え方をまとめたい」と答弁した。県全体の意思であることを示すため、県側が提案し、議会が議決する方式とする。(東京新聞10月7日)


【日常に現れる優生思想・障害者差別】
政府は、「障害者との共生を否定する人はほとんどいない」と判断したと報じられました。私個人は、その判断は障害者やその家族、関係者らの実感とはかけ離れていると感じています。日常に現れる優生思想、障害者差別に関する記述を幾つかピックアップします。

・竹内章郎・岐阜大学教授(社会哲学・生命倫理・障害者論)=私も実際に経験しましたが、障害者施設の建設に対して、地域の健全な秩序が乱れるとして反対運動をする住民もいます。これらも優生思想だと言えます。(NHK福祉ポータル・ハートネットTVブログ9月1日)

・事件のあった施設の前に置かれた献花台を、知的障害がある娘と訪れた母親は、「この子を連れていると、街でじっと見られることがある。何も悪いことはしていないけど、本当にいたたまれない気持ちになる。視線がつらいんです」と思いを吐露した。何の罪もない人が肩身の狭い思いを強いられ、声を上げられない現実があった。(朝日新聞・前田朱莉亜「記者有論」 相模原事件」10月6日)

・神経筋疾患ネットワーク「相模原市障害者殺傷事件への声明文」=そもそも、彼の言う「障害者はいなくなれば良い」という思想は、今の社会で、想像もできない荒唐無稽なものになり得ているでしょうか。現実には、胎児に異常があるとわかったら中絶を選ぶ率が90%を超える社会です。障害があることが理由で、学校や会社やお店や公共交通機関など、至る場所で存在することを拒まれる社会です。重度の障害をもてば、尊厳を持って生きることは許されず、尊厳を持って死ぬことだけを許可する法律が作られようとしている社会です。(7月29日)

野田聖子衆院議員=率直に言うと、通り魔のような無差別殺人と比べて、私は意外性を感じなかった。「いつかこんなことが起こる」って。なぜなら息子を通じて、社会の全てとは言いませんが、相当数の人々が障害者に対するある種の嫌悪感を持っていると日々感じてきましたから/息子の治療について、インターネット上にはこんな声もあります。ある人は「野田聖子は国家公務員だ。今、財政赤字で税金を無駄遣いしてはいけない、と言われている。公務員であるなら、医療費がかかる息子を見殺しにすべきじゃないか」と。(毎日新聞「特集ワイド 相模原殺傷事件」8月17日)


【優生思想との対峙】
事件後、「命の尊さ」「かけがえのない命」「障害者だって○○」といった声が上がりました。それは当然だと思う一方で、優生思想を持つ容疑者にはその言葉が届かない、通じないのではないかとも考えました。優生思想に対峙し、克服するには、どのような言葉・思考・行動が必要なのでしょうか。

石井哲也・北海道大学教授(生命倫理)=障害者がいる家庭、社会は、労力・時間・精神・経済面での負担がある。しかし、「重複障害は介護負担が大きいから不要」とする容疑者の意見には同意できない。先天異常の発生は生物である以上回避できないからだ。そのうえで、社会で負担をどう受け持つかを考えるべきだ。(毎日新聞「相模原殺傷 私の視点」8月13日)

・木村草太・首都大学東京教授(憲法学)=日本国憲法も、国民の権利を保障する第三章の総則として、「すべての国民は個人として尊重される」と規定した(憲法一三条)。この規定は、個人を、「経済活動に役立つから」とか「国益に貢献するから」ではなく、ただ、「個人だから」という理由だけで尊重すべきことを定めている。「客体化の否定」という観点から見るとき、優生思想を否定する理由は、そもそも「人の価値」を論じること自体が誤りだからだ。善意の人が、「障害者もみんなを笑顔にしてくれる」とか、「障害者も経済活動に貢献できる」などと議論をするのを見ることがあるが、それは、知らず知らずのうちに優生思想のペースに乗せられてしまっているということになろう。(『現代思想2016年10月号』pp60-61)/優生学を克服するには、「そんな発想は不合理だ」と非難するのではなく、その合理性をさらに突き詰めた時の結論と向き合うしかない。障がい者を排除すれば、障がい者の支援に充てていた資源を、他の国家的な目標を実現するために使えるだろう。しかし、それを一度許せば、次は、「生産性が低い者」や「自立の気概が弱い者」が排除の対象になる。また、どんな人でも、社会全体と緊張関係のある価値や事情を持っているものだ。たばこを吸う人、政府を批判する人なども、社会の足手まといとみなされるだろう。国家の足手まといだからと、誰か1人でも切り捨てを認めたならば、その切り捨ては際限なく拡大し、あらゆる人の生が危機にさらされてしまう。(沖縄タイムス「木村草太の憲法の新手(37)」8月7日)

・藤井克徳=障害者が仮に消えるとする。その結果何が起こってくるかと言うと、今度は次の厄介者を探し出す。それは高齢者であったり、病気の女性であったり、病気の子どもだったり、それをまた消していくと、また次の弱者を探し出す。弱者探しの転化、弱者探しの連鎖ということになっていく。結果的には一握りの強者だけが残っていくと、論理上なってくる。とってもこれは怖い。障害者問題だけではなく、いろんな社会の層に普遍化される問題だということ。それが優生思想の怖さ。(ビデオニュース・ドットコム7月27日)

杉田俊介(批評家)=優生とは、おそらく、あらゆる意味での線引きの暴力である。すると、根本的なところで優生に抗するとは、どんな線引きをも拒否し続ける、ということだ。(『現代思想2016年10月号』p124)

・竹内章郎=近代国家では、能力に応じて社会的地位を得ることは正しいこととされていますから、能力の劣ったものが価値の低いものとして扱われるのを容認しているところがあります。その差別構造の底辺にいるとみなされているのが意思表示も難しい重度の障害者だったり、認知症患者だったりします。私たちが優生思想から自由になるには、人間を能力によって差別することの問題点について、もっと深くもっと真剣に考えていかなければならないと、私は思っています。(NHK福祉ポータル・ハートネットTVブログ9月1日)

立岩真也立命館大学教授(社会学)=優生主義を根絶はできないとしても、その勢力を弱くすることだ。そしてそれは可能である。一つに、できる人が得をするのは当然だ、できることにおいて価値があるというこの近代社会の「正義」が優生主義を助長している。それをのさばらせないことである。もう一つ、優生・安楽死思想は人を支える負担の重さの下で栄える。つらいと殺したくなるということだ。負担そのものをなくすことはできない。だが一人一人にかかる度合いを減らすことはできる。するとこの人はいなくなってほしいと思う度合いが少なくなる。(共同通信配信/http://www.arsvi.com/ts/20160028.htm

【被害者の他者化】
事件を知ったとき、私は自分や自分の子どもが被害にあったら・・・と想像しました。一方で、健常児の親は「うちの子が被害にあったら」とは想像しないかもしれない、私もわが子に障害がなかったら想像しなかったかもしれないと思いました。
メディアでは識者やコメンテーターが「社会的弱者」という言葉を使うのを何度か耳にしました。障害者は人数の比率からいえば「社会的マイノリティ」かもしれませんが、多様な障害者をひとくくりに「弱者」とレッテルを張ることに強い違和感を覚えました。

・障害の有無を理由に「『私たち』と『彼ら』に分ける世界を受け入れない」と訴えたのは、英国の大学教授ら6人。(朝日新聞・古田寛也8月26日)

・慎允翼・東京大学教養学部1年=「保護する対象」か「殺害の対象」か、両者の考え方は真逆だが、上から目線で「社会的弱者」とレッテルを貼っていることに違いはない。(毎日新聞「相模原殺傷 わたしの視点」9月15日)

・星加良司・東京大学講師(社会学・障害学)=今回の事件の被害者は、重度の知的障害を持つとされる施設入所者だった。すなわち、事件は「施設」という空間的にも心理的にも「我々の社会」から隔絶した場で起こった出来事であり、被害に遭った人々は「知的障害者」という「異質」と思われている存在だった。だから、この事件がいかに残忍で卑劣な犯行であったとしても、それが「我々の社会」において「我々」に対して向けられたものだというリアリティを、多くの人は感じなかったということではないだろうか。(『現代思想2016年10月号』pp89-90)


次回は「匿名報道」「施設/地域」などについて紹介します。