戦後70年――戦時下の障害児者は?

妻(yuheimama)です。悠平の障害が分かった後、しばらくは自閉症の理解と日々の悠平との生活でいっぱいいっぱいでしたが、少し余裕ができてから、気になり始めたことがあります。「今でさえ、障害があると幼稚園の入園を断られたり、超マイペースな悠平の言動に奇異な視線を感じることがあるのに、皆の生死が危ぶまれる戦時下、支援や配慮が必要な障害児者はどのような扱いをされてきたのだろう」という疑問です。そこで、当時の障害児者の様子を知ることができる文献を探して読んでみました。

仁木悦子編・代表(障害者の太平洋戦争を記録する会)『もうひとつの太平洋戦争』(立風書房、1981年)は、身体障害者とその関係者による戦中の体験談33編を集めた本です。ここでいう身体障害には、先天的な障害から、戦時中の栄養失調からきた視覚障害、空襲等による負傷が原因の身体障害など、さまざまな障害が含まれています。幼少時から身体障害のあった方の中には、空襲の時、自力で避難できないために家族や知人に助けられて感謝しているとう方もいれば、親戚を頼って疎開しようとしたときに「ミットモナイからやめてくれ」(p271)と断られた脳性マヒの方もおられました。また、別の脳性マヒの方は、学校での成績はよかったのに、軍人の教官による訓練に参加できずに見学していると「こんな馬鹿は学校に来る必要はないのだ」というようなことを言われ、疎開先の学校では級友に「穀つぶしのくせに生意気だ」といじめられ、終戦後に自宅に戻ってからも「戦争が私を小さくし、いじけさせてしまった」と回想しています(pp57-67)。

体験談のほとんどは障害者自身によるものですが、中に、日本で最初に設立された肢体不自由児学校「光明」の校長(終戦当時)による「太平洋戦争と光明学校」という文章が掲載されています(pp209-220)。光明は、「就学免除」「就学猶予」と称して、普通の小学校に通えなかった児童のために、1932(昭和7)年に東京で設立されました(現在の東京都立光明特別支援学校<世田谷区>)。設立までには「金がかかり過ぎる。そんな子供に金を出すより、英才児に使う方が国のためになる」という理由から先送りにされながらも、先人たちの並々ならぬ努力によって設立にこぎつけたといいます。戦争が激化し、学童集団疎開が始まった時期、光明については「世田谷区役所では、問題が大きすぎて区の手には負えないことをあやまる。都の学務課に相談しても全くのお手上げ。一般学校の疎開事務に忙殺されて、光明までは手が廻りかねるという。役所の窮状も分からぬではないが、では光明はどうなるのだ。同じ学校でありながら、肢体不自由児学校は都の厄介者か、お荷物か」と記しています。結局、校長自らが探し回り、頼み込み、長野県に疎開することが決まりました。しかし列車で疎開するにも、授業のほかに生活指導や買い出しまでしている職員には荷造りまでする余裕がなく、治療機器まで運ぶには誰かに頼む必要がありました。そこで校長は近隣の軍の隊長に「本土決戦の場合、肢体不自由児は足手まといになる。この児童がいなければ、それだけ戦力は増強する。当然引越に手を貸すべきだ」と、「妙な要求」をして納得させ、荷造り・運搬を完了させて、学童集団疎開に至りました。疎開後、学校は空襲により大半を焼失し、光明の児童らは終戦後も49(昭和24)年まで、東京に戻ることができなかったそうです。


【参考】光明学校の疎開について、小学生にも読みやすい単行本が発売されました。


同書によって、身体障害者の体験の一端に触れることができましたが、知的障害児者の場合はどうだったのでしょうか。知的障害児者の場合、文章で体験談を書き記すことは難しかったことと思います。杉本章『<増補改訂版>障害者はどう生きてきたか――戦前・戦後障害者運動史』(現代書館、2008年)では、少しでも労働力になりそうな知的障害児者は軍事工場に駆り出された旨が書かれています。精神薄弱問題史研究会編『人物でつづる障害者教育史 日本編』(日本文化科学社、1988年)では障害児の全体状況として、「1941(昭和16)年の国民学校令の下位規定で養護学校、養護学級が規定され、養護学級は中等学校令にも位置付くのであった。しかし、法的根拠の付与にもかかわらず、戦争激化の中、逆に1940(昭和15)年の国民優生法の制定により、戦争に役立たない障害者を切り捨てようという動きや、担任の応召等による学校・学級・施設の疎開・縮小・閉鎖へ追い込まれていくのであった。そして多くの障害者が戦争の犠牲となり、教育と保護の場を奪われ、生命さえも奪われていったのである」(p107)と記しています。中村満紀男・荒川智編著『障害児教育の歴史』(明石書店、2003年)も、「基本的に障害児(者)は、戦争に役立たない者とみなされて「非国民」「穀潰し」と蔑まれ、人間としての尊厳を極度に冒涜されていった」(p129)と述べています。

障害者はどう生きてきたか―戦前・戦後障害者運動史

障害者はどう生きてきたか―戦前・戦後障害者運動史

障害児教育の歴史

障害児教育の歴史


『もうひとつの太平洋戦争』に収められた体験談の多くには、二度と戦争を起こしてはいけないという気持ち・願いが綴られています。「軍国主義社会とは、障害者がつまはじきにされる社会である。もっとも能率的かつ合理的にものごとを運ぶには、障害者は邪魔者である。太平洋戦争で一番被害を受けたのは、障害者だった。少なくとも障害者は太平洋戦争を起こしてはいない。どうしてもこれだけは申し上げたかった」(p15)と結んでいる方がいました。被害の大小を判断するのは困難ですが、多くの障害者が「穀つぶし」「厄介者」として扱われ、「後回し」にされてきたことを、胸に刻んでおこうと思います。日本だけでなく、戦場となったすべての国々で同じようなことがあったのではないか、今現在でもあるのではないか……調べつくすことは困難ですが、そう想像しています。


【参考】ナチス政権下のドイツでは、数万人の障害児者や病人が「生きるに値しない命」として殺害されました。法制化はされなかったものの、ヒトラーの承認の下に行われたこの大量殺戮は、医師による「不治者への憐れみ」「安楽死」であったと主張されました。「安楽死」計画の詳細と、戦後のニュルンベルク裁判(連合国による軍事裁判に続く、米国による継続裁判における医師裁判)については、下記の文献を参照ください。

ナチスドイツと障害者「安楽死」計画

ナチスドイツと障害者「安楽死」計画

1920年に発表された「安楽死」思想の原典の翻訳はこちらです。

「生きるに値しない命」とは誰のことか―ナチス安楽死思想の原典を読む

「生きるに値しない命」とは誰のことか―ナチス安楽死思想の原典を読む