秩父三十四観音の巡礼を終え、日本百観音を結願です

yuheipapaです。久しぶりに書きます。
昨年5月、坂東三十三観音の巡礼を終えたことは、このブログでも書きました(「坂東三十三観音の巡礼が終わりましたー付記・春の花2016」=2016年5月14日)。その後、悠平と二人で埼玉県秩父市を中心に34カ所の観音霊場を回る秩父三十四観音の巡礼を続け、先月無事に終えました。これで、近畿地方の西国三十三観音、坂東三十三観音と合わせて、日本百観音と呼ばれる観音巡礼をひとまず終えました。 
結願(「けちがん」と読みます。巡礼が終わることです)した札所三十四番、水潜寺(すいせんじ、皆野町)では日本百観音巡礼の終了証のようなものと、秩父三十四観音の終了証をいただきました。百観音は3千円、秩父三十四観音は千円をお寺に納めました。坂東のときと同じように、百観音には私と悠平と二人の名前を並べて書き入れていただきました。秩父三十四観音の方は名入れはないそうです。住職のお話では、観光バスで団体の巡礼が来た場合に、とても対応できない、とのことでした。山奥にあるお寺で、境内にきれいなシャガの花が咲いていました。寺社巡りをするようになってから名前を知った花の一つです。

西国観音巡礼を思い立ったのは、6年前の2011年夏、家族旅行で和歌山県の太地町や那智勝浦町を訪ねた時のことでした。その年の2月に、わたしの転勤に伴い東京から大阪府高槻市に転居していました。那智の滝を見に行って、すぐそばにある西国霊場一番の青岸渡寺にお参りした際、亡父が若いころ、九州から出かけてはお参りし、ご朱印を集めていたのを思い出しました。今度はわたしが悠平と一緒に回ってみようと、その場でご朱印帳を買い求めました。
以後、西国霊場は転勤で大阪を離れるまでの3年弱で2巡以上、回りました。坂東はおおむね2年で1巡、そして秩父が1年で1巡です。この間、休日のわたしと悠平の2人での外出が定着しました。悠平にとっては、出不精にならずに済む、体力作りになる(三つの霊場とも、原則として公共交通機関と徒歩で回りました)、大好きな電車やバスに乗れる機会になるなど、いいことがたくさんありました。わたしにとっても、平日はなかなか悠平と密接に過ごす時間を取りにくい中で、週に1度か2度とはいえ、悠平の成長ぶり、発達ぶりをじかに感じ取ることができました。また、そうやって悠平が1日、家を空けることは、yuheimamaにはいい休息時間になります。
観音巡礼を始めた時、悠平は5歳になって間もなくで、幼稚園の年中組でした。百観音を巡り終えた今はもうすぐ11歳の小学5年生です。恐らく幼児のころは、何が何だか分からず、ただ大好きな電車やバスに乗れるので付いてきていたのだろうと思います。秩父を回った1年間は、寺ごとの特徴を口にするようになったりしました。わたしと並んで般若心経も途中までですが、唱えるようになっています。悠平なりに巡礼の意味をとらえ始めたのかもしれません。よく成長したと思います。私も悠平に向き合いながら、多くのことを学びました。親も一緒に成長したのだと思います。

【写真】水潜寺の境内のシャガ

実は、この記事を書くのに際して調べてみて気付いたのですが、秩父巡礼の初日、一番の四萬部寺(しまぶじ、秩父市)に行った日から、水潜寺で巡礼を終えた日までちょうど1年、ぴったり365日でした。特に意識していたわけではなく、たまたまでした。ちょっと驚きです。
秩父には10回訪れました。複数の府県にまたがった西国や坂東と違って、秩父音霊場は秩父市とその周辺に霊場が集まっているので、だいたいどのガイドを見ても、6日か7日なら余裕を持って回れるとしていますから、10回は相当にゆっくりしたペースです。急ぐなら、タクシーをチャーターして1泊すれば、2日で回ることもできるそうです。
秩父は自然が豊かです。季節ごとにいろいろな花が咲きます。また江戸時代、江戸から巡礼が盛んにやってきたようで、歴史を感じさせる石仏や道しるべなども多く残っており、そうしたものにも目を向けながら、悠平とのんびり歩きました。もちろん、「乗り鉄」も西武鉄道秩父鉄道を楽しみました。
悠平と一緒に秩父路を歩いた思い出を、また改めて紹介しようと思います。