ちょうどよい「やり切った感」とともに迎えた定年~人生の夏から秋へ

 yuheipapaです。
 ことし10月、わたしは満60歳になり、勤務先のマスメディア企業を定年退社しました。引き続き、1年ごとに延長雇用契約を更新しながら、年金が支給されるまであとしばらくは同じ会社で働く予定ですが、社会人としては大きな節目を迎えました。
 悠平が生まれたのはわたしが45歳の時でした。自分が定年になっても、悠平はまだ中学生。中学、高校そして大学へと、一般には教育費がもっともかかる時期です。定年になっても、可能な限り長く働き続けることになるのだろうな、と思っていました。ただ、15年も先の自分の姿、どんな気持ちでその日を迎えるのかなどは、到底想像できませんでした。
 「働く」ということは、生活のための収入を得ることであるのと同時に、自己実現の手段です。思う存分に能力を発揮して成果を挙げたい、というのは誰にでもある自然な感情だと思います。わたしもそうでした。そして仕事を口実に、悠平が生まれた後も育児は妻(yuheimama)に任せきりでした。
 やがて悠平が3歳の時、広汎性発達障害の診断を受けました。前後して妻も心身の調子を崩しがちになりました。その頃のわたしは勤務先で管理職になったばかりで、それなりの責任あるポジションに就き、帰宅は毎日午前1時から2時、という生活でした。妻の具合が悪い日は、職場でやり繰りをつけて早めに帰宅して悠平の相手をしたり、逆に朝も遅れて出社したりしながら、仕事と現実の生活の折り合いを考えました。当たり前のことですが、妻にとっての夫、悠平にとっての父親は自分しかいません。家族と過ごす時間を増やそう―。そう思ったときから、仕事への向き合い方を変えました。過剰に気負うことなく、自分なりのペースで進む、他人の目、他人の仕事ぶりを気にしない、しかし自分にしか出せない成果を目指す。この十数年間は、そうやって過ごしてきました。
 この間、「定年になったら『もっと責任ある地位に就いて、思う存分に腕を振るってみたかった』と思うのだろうか」と考えたりしたこともありました。しかし、実際に定年に達した今、そんな気持ちはまったくありません。ちょうどよい「やり切った感」とでも言えばいいでしょうか。会社や仕事を自分にとって絶対のものと受け止めるのではなく、相対的に考えることができるようになっていたのだと思います。
 10年前の大阪への転勤は、見知らぬ土地での生活という面では負担もありましたが、いいこともいくつもありました。一つは、わたしの休日に悠平と出かけることが習慣になったことです。関西には歴史の古い社寺や史跡が豊富にあります。住んでいた大阪府高槻市から京都まではJRの新快速に乗れば15分という近さでした。休日のたびに、悠平を連れてあっちのお寺、こっちの神社と巡りました。悠平にしてみれば、いろいろな電車やバスに乗れるのが楽しかったようです。わたしが悠平と出かけている間は、妻は体を休めることができました。
 悠平との外出は今に至るまで続いています。悠平と2人で過ごす中で、思わぬ成長ぶりに驚くことも増えてきました。そうした悠平の姿を見ながら、これから先の妻と悠平との3人で過ごす時間のことをあれこれと考えるようにもなっています。それはそのまま、定年後のわたし自身の生活を考えることにつながっています。悠平のおかげで、わたし自身も居場所を見失わずに済んでいる、と言えるかもしれません。

 職業人としての生活に区切りを迎え、わたしの人生は夏から秋に入りました。しかし、悠平は人生の春の真っただ中です。やがて必ず来る「親亡き後」に備えて、何を教え、何をどう残してやるか。悠平と歩く道のこれからの課題です。

 この1年、ご訪問ありがとうございました。
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