映画『くちづけ』『海洋天堂』――2人の父親…重なる心情、異なる決断

妻(yuheimama)です。先日、悠平が学校に行っている間に、映画『くちづけ』を観てきました。この映画は、知的障害を持つ娘とその父親を軸に、周辺の人々の生き方や気持ちを、笑いと涙を交えて描いています。

妻に先立たれ、男手一つで娘を育ててきた父親が、末期がんの余命宣告をされ、自分の死後の娘の将来を案じて、娘を施設に預けます。ところが7歳の心を持つ30歳の娘は、それまでずっと一緒に生きてきた父親を求めて何度も施設を脱走。父親の病気を知り、父が死ぬのなら自分も死ぬと言い張ります。そして父親は涙ながらにある決断をし、行動に移します。

この作品の脚本は、実際にあった「事件」をきっかけに、さまざまな施設を取材して書かれたものだそうです。観終わった後、自分が父親の立場だったどうするのか、答えを出せないまま、席を立ちました。「あぁすべきだ」「こうすべきだ」と、口では簡単に「べき論」を言えますが、切羽詰まったときにどうするか…自閉症の息子を持つ知人が「(子どもが)自分より先に死んでくれればいい」とつぶやいた言葉を思い出しました。

『くちづけ』が突きつけた苦い現実に救いを求めるかのように、映画を見た数日後、以前に買っていたDVD『海洋天堂〜Ocean Heaven〜』を観ました。こちらも妻に先立たれて男手一つで知的障害を伴う自閉症の息子を育ててきた父親が、末期がんで余命宣告され、父亡き後の息子の行く末を案じる物語です。舞台は中国。

冒頭で、思い詰めた表情の父親と無垢な表情の息子が小船から海に飛び込み、無理心中を図ります。「え、結局これが結末なの?」」とショックを受けつつ、事の成り行きを観ていくと、息子は泳ぎがうまくて二人とも助かってしまいます。その後父親は手当たり次第、息子を託せられる施設を探しますが、なかなか見つかりません。ようやく見つかった施設に21歳の息子を預けると、初日の夜に息子は大パニックを起こし、施設のスタッフでは手におえない状態になります。結局、父親が施設に住み込み、息子に身辺自立や日常のルーティンワークを教えていきます。息子に生きていくための力をつけさせようと決断したのです。

海洋天堂 [DVD]

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2人の父親は最後の決断こそ違ったものの、余命宣告を受けて後、残された時間のほとんどを子どものために費やしました。その姿に胸を打たれる一方で、彼らは自分の人生を振り返り、どれだけ自分のために時間を使うことができたのだろうかと考えてしまいました。子どものために生きることで彼ら自身が生かされているという見方もできるでしょう。それが一面の真実であっても、彼らは「障害者の親」であると同時に、一人の男性として、社会人として、個人として、自分の生き方を追求することができたのだろうかという思いが、消化しきれずに心に残りました。この問いは、今を生きる障害児者の親にも多かれ少なかれ当てはまるのではないでしょうか。

以前、当ブログでも紹介した宮田宏善『子育てを支える療育』に、療育の負荷が母親に重くのしかかる現状に関して、こんな一節があります(書籍についは「家庭療育1周年!」を参照ください)。「母親が、『障害のある子どもの母として』ではなく、『母として』『女性として』『人間として』幸せになっていける環境を保障できず、むしろそれを阻害するような療育が、子どもたちを自立に向けて育てていけるはずがありません。(中略)家族のすべてが自分らしい人生を送り、自己実現していけるように援助することも、療育の役割として認識されなければなりません」(p.178)。

子育てを支える療育―“医療モデル”から“生活モデル”への転換を

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フィクションであるとは言え、妻に先立たれた映画の2人の父親にも、自分らしい人生を送り、自己実現していけるようなサポート環境があったなら、どんなにか安らかに残された人生を生きられただろうと思わずにはいられませんでした。

一人っ子の悠平の将来を考えるとき、yuheipapaと「社会に居場所を見つけ、支援を必要としながらも、自分なりの楽しみを持って、できる限り自立して生きていってほしい」と話しています。『くちづけ』に現実の厳しさを、『海洋天堂』に希望を教えられ、同時に自分の「人生の使い方」までをも考えさせられました。