馬肉も鯉もおいしかった~信州に家族で旅行

 yuheipapaです。
 11月の休日、家族3人で長野県の上田市から小諸市、佐久市へ1泊2日の旅行に出かけました。主な目的は、上田市にある「無言館」の見学でした。日中戦争や太平洋戦争で戦死したり戦病死した画学生の遺作を展示している私設の美術館です。訪ねる前に悠平には一通り、どんな人たちの作品を展示しているのか、説明しました。美術館ではわたしやyuheimamaと一緒に、静かに作品を一つひとつ見ていました。
※「無言館」
 https://mugonkan.jp/

 わたしもyuheimamaも、そして悠平も、作品を見ている間は無言でした。悠平なりに感じ取ったことがあるのではないかと思います。

 この旅行のもう一つの目的は信州の味巡りでした。
 長野への家族旅行は2回目。悠平は6年前の前回の旅行で、当時は小学生ながら馬肉のおいしさを覚えました。今回は鯉料理にもチャレンジしました。幼児期の偏食がうそのように、旅先では土地の名物を口にするようになっています。

 初日の昼食は馬肉うどんにしました。北陸新幹線で上田駅に午前中に到着。駅から徒歩数分のところに、地元でも有名な馬肉うどんの店があります。
 だしは馬肉だけというつゆは、かなり濃い色ですが、すすってみると甘みが強く、ちょっとほかでは味わえない、後を引くおいしさです。煮付けた具の馬肉もやわらかく、酒のつまみ、ご飯のおかずにもよさそうです。メニューには「肉皿」もありました。

【写真】悠平はうどん一杯では足りないだろうと思い、ミニ天丼とのセットを頼みました。てんぷらはエビとイカです

 山梨県富士吉田市の「吉田うどん」も具に馬肉をのせますが、麺はコシが強いのが特徴。上田のこのお店は麺が柔らかく、同じ馬肉うどんでも食感は対照的でした。
 メニューには「馬刺し」もあり、隣のテーブルに座った母子が馬肉うどんと一緒に注文。運ばれてきた馬刺しを、小学生ぐらいの男の子がおいしそうに食べていました。その顔が本当にうれしそうで、「ああそうか、こうやって故郷の味がしっかり舌に刻み込まれるのか」と思いました。わが家は、馬刺しは宿泊した別所温泉の旅館でいただきました。柔らかくて、悠平も満足そうでした。

 事前に検索して調べたところでは、上田駅近隣のいくつかのそば屋さんにも、馬肉を具にしたかけそばがあります。単に「肉そば」と呼んでいる店が多いようです。

※6年前の長野旅行です

yuheipapa.hatenablog.com

 2日目の昼食は、上田独特の「美味(おい)だれ」を試そうと思い、上田駅構内のから揚げ店にしました。すりおろした生ニンニクがたっぷり入った焼き鳥のたれです。焼き上がった焼き鳥の串をつまんで、このたれにくぐらせて食べるのだとか。
 今回の旅行では焼き鳥屋に行くのは難しかったので、同じたれをかけた「美味だれから揚げ」を食べてみたのですが…。やはりお酒、それもビールやサワーなどと一緒に楽しむのがいいようです。口の中から強烈なニンニクの刺激がなくなるまで、しばらくかかりました。から揚げは、さっくり揚がっていてとてもおいしかったです。

 2日目の夕食、この旅行最後の食事はちょっとした波乱がありました。
 午後は上田市を離れ、しなの鉄道で小諸市に移動。当初の計画では夕方、JR小海線で小諸から佐久市の新幹線停車駅、佐久平駅に行き、そば屋で夕食を取って東京に帰る予定でした。旅行初日の午後、目星を付けていたそば屋に予約を入れようとしたところ、既に予約を締め切っているので当日、来店順の案内になるとのこと。帰りの列車の時間があるので、行列に並ぶリスクは避けたいと考え、小諸で夕食も済ます計画に変更しました。
 小諸城址で紅葉を楽しみ、古民家カフェで3人それぞれにスイーツとそば茶でくつろいだりしながら、さてそろそろ早めの夕食をと、これも目星を付けていた駅前の郷土料理屋に向かったところ、まさかの休業。「ええっ!」と、焦る頭で選択肢を整理して、大急ぎで駅のホームに向かい、佐久方面に向かう列車に発車寸前、文字通り飛び乗りました。
 この旅行でもう一つ、試してみたかったのが鯉料理です。特に佐久市は食用の鯉の養殖が盛んで、きれいな水で育てるため味にクセもないとか。酢みそで食べるのが一般的な鯉の洗いも、佐久ではわさび醤油で食べるとのことです。市内には鯉料理が食べられる店がいくつもあり、評判がいい店をいくつかチェックしていました。佐久の鯉は次の機会にお預けと思っていたのですが、急きょ、“決行”することにしました。
 向かったのは、佐久平の四つ先の中込(なかごみ)駅。小海線を蒸気機関車が走っていたころは、機関区が置かれていた拠点駅です。古いながらも立派な駅舎に往時をしのぶことができます。その駅前にある食堂に入りました。
 ここは鯉のほかにもメニューが豊富で、悠平やyuheimamaには鯉以外の料理を、と思っていたのですが、悠平は敢然と「鯉を食べる」と宣言。選んだのは「鯉天丼」でした。わたしは鯉こくと鯉の洗いの定食にしました。yuheimamaは鍋焼きうどんにしたかったのですが、メニューにはあるもののこの日はやっていないとのことで、たぬきうどんになりました。これは誤算でした。

 鯉こくは、輪切りにした鯉をみそで煮た料理。みそ煮というほどは煮込んでおらず、言ってみれば鯉のみそ汁です。一口すすると、海の魚にはない、いい香りがしました。澄んだ水の匂いと言えばいいのか。人によっては川魚特有のクセと感じるかもしれません。特筆すべきは卵と内臓のおいしさです。臭みも苦みも全くなく、鯉料理のだいご味を楽しめました。
 悠平の鯉天丼は名前の通り、大ぶりの鯉の切り身の天ぷらをのせたどんぶり。この店には鯉のから揚げもありました。佐久でも鯉の天ぷら、から揚げは珍しいようです。悠平もわたしも、鯉を満喫しました。いずれ再訪したいと思うおいしさでした。その時は、鍋焼きうどんもやっていますように。

【駅でも鯉がお出迎え】

【おまけの写真】小諸の古民家カフェで。yuheimamaはそば粉のケーキ、悠平はそば粉シュークリーム、わたしは野沢菜のおやきを選びました。

漢字と仕事とQOLと

 妻(yuheimama)です。悠平は、細く長く漢字の学習を続けています。中学部を卒業するまでに、小4までの漢字を書けるように、小6までの漢字を読めるように学校、家庭で練習してきました。高等部に入学後、読みとりを中学の学習範囲に広げるべきか迷いましたが、小6までの漢字の定着を優先させることにしました。というのは、小5~小6の漢字の用例を見ると、「意味が分かるかな?」と感じる熟語が多々あったからです。そこで、小5~小6の漢字の書き取りドリルを放課後デイの宿題として取り組み、家庭では母が「これは知らないかも」と思う熟語の意味を辞書で調べ、調べた熟語を使った文を作るプリントを作って取り組むことにしました。案の定、読めても意味が分からない熟語が多く、辞書で意味を調べても文を作るのには毎回、苦戦しています。このプリントを何枚かこなした後、復習プリントにも挑戦です。こうした学習を重ねることで、どの程度定着するか分かりませんが、やらずに自然に定着することはないだろうと思い、高等部卒業までは続けてみようと思っています。

 さて、悠平は近く、進路学習として福祉施設で現場実習をする予定です。実習前の事前面談には施設の担当者、学校担任、悠平、母の4人が参加。担当者から実習で行う仕事内容の説明があり、悠平に「漢字は書けますか?」との質問がありました。学校から施設に事前に提出した書類には、小4までの書き取り、小6までの読み取りはできる旨が書かれていたのですが、悠平は自信がなかったのか「難しいです」と返答。担当者は微笑しながら「頑張ってください」と言ってくださいました。

 漢字には今一つ自信が持てない悠平ですが、先日、旅行先で立ち寄ったSLの展示の前では、頼まれもしないのに説明文を音読。読みと書きでは難易度が違うとはいえ、母、「できてるじゃん!」と心の中で笑ってしまいました。これまでの学習がどの程度仕事に生かせるのかは分かりませんが、少なくても悠平のQOL(生活の質)の向上にはつながっているようです。「頑張ろうね、悠平」と思った出来事でした。

 

行事の前には健康管理

 妻(yuheimama)です。行事が盛りだくさんの2学期、悠平は9月下旬に修学旅行で福井・金沢に行き、10月に入ると早々に東京都の特別支援学校・特別支援学級設置学校体育連盟主催の陸上競技大会に参加しました。

 修学旅行では福井県立恐竜博物館や金沢・兼六園等を見学し、お土産には地元のお菓子のほか、(たぶん)地元でしか買えない恐竜博物館のラッピングバスのトミカを購入し、大満足で帰宅しました。ご当地トミカを買ってくるあたり、実に悠平らしく、微笑ましく思いました。

 陸上競技大会では100m走に出場。賞状には手が届きませんでしたが、大きな競技場のトラックを思いっきり走り抜け、自己ベストを更新することができました。スタンド席でお弁当を食べ、友達の競技を応援し、日焼けしてスポーツの秋を満喫しました。

 ところで、こうした行事の前には、必ず学校から健康管理表が配布されます。朝夕の検温や食欲、睡眠等の様子を1週間~10日程度、毎日記入します。これまでは母が記入していたのですが、そろそろ自分でできるかなと思い、悠平にやらせてみることにしました。母が担当していた時は正直、「面倒だな~」と思い、休日など記入を忘れてしまうこともあったのですが、悠平は楽しみな行事のためとあってか、毎日きっちり記入していました。障害があると、体調不良を感じにくかったり、うまく訴えることができず、突然体調を崩したように見えることがあります。そうしたことからも、検温や体調を自分でチェックして、異変があれば自分で気付けるようになることは生活スキルの一つかなと思います。

 健康管理表の記入は一段落しましたが、11月には進路学習として、事業所での実習があります。またまた健康管理表が配られるかもと思いつつ、これからは悠平が自分でできることを増やしていくためにも一歩下がって見守っていこうと思っています。あ~楽ちん(笑)。


 yuheipapaです。
 悠平が修学旅行で家族にもお土産を買ってきてくれました。羽二重餅と「白えびビーバー」の二つ。yuheimamaによると、悠平は出発前から「お父さんへのお土産はビーバーにする」と話していたそうです。ビーバーって何だろう? 正解は、金沢の製菓会社が販売している揚げおかきでした。地元では定番のおやつのようです。袋には名前の由来が書かれていました。1970年に開催された大阪万博のカナダ館のビーバー人形の歯と形が似ているから、とのこと。なるほど。
 悠平が「家族にもお土産を」と選んでくれたのがうれしく、yuheimamaとおいしくいただきました。

特急「もぐら」でモグラ駅の旅~悠平のリクエストで知った秘境駅

 yuheipapaです。
 9月のある休日、悠平と一緒に新潟県の越後湯沢まで乗り鉄の日帰り旅に出かけてきました。一つ前の投稿で書いた通り、8月から「北関東三十六不動尊」霊場の巡礼を始めました。その第一番の札所が群馬県みなかみ町の水上寺でした。この時、当初の予定では、水上駅からJR上越線で新潟県方面に向かうことにしていました。目的は、谷川岳のふもとにある土合(どあい)駅。下り線のホームが地表から深さ70メートルのトンネルの中にある「モグラ駅」として、鉄道ファンらの間では有名です。結局、その日は水上から沼田方面に向かい、土合駅行きはまたの機会に、ということにしていました。その後、あれこれ調べているうちに、JR東日本が大宮から越後湯沢まで、この土合駅見学をメインにした臨時特急を走らせていることを知りました。その名も「谷川岳もぐら」号。冗談のような愛称です。運用する車両は、かつて「踊り子」号などに使用されていた185系。「これは乗らねば」と思い、すぐに予約。悠平に伝えると大喜びでした。
 以前の投稿で、悠平が最近は自己主張ができるようになってきたと書きました。このときもそうです。「せっかく越後湯沢まで行くから、周辺でどこか行きたいところがあれば行こうか」と聞いてみました。実はわたしもよく知らない土地だし、何気なく声を掛けただけだったのですが、即座に「ミサシマ駅!」と返事がありました。「ほくほく線の美佐島駅。地下にある駅だよ。もぐら駅を2カ所行きたい!」。調べたところ、越後湯沢からJR上越線で五つ先の六日町駅から北越急行ほくほく線が分かれています。北陸新幹線の長野~金沢が開業する前は、越後湯沢から富山方面までの特急が走っていました。そのほくほく線の六日町駅から二つ目が美佐島駅。単線のトンネルの中に駅のホームがあります。
 せっかくの悠平のリクエストですので、旅のメインは土合駅と美佐島駅にして、もうひとつ、越後湯沢に近い南魚沼市の禅寺である関興寺(かんこうじ)を参拝する計画を立てました。

 「谷川岳もぐら」号は大宮を10時37分に発車。鉄道好きの間で人気が高い185系での運転とあって、出発前のホームでは先頭車両を撮影する人でにぎわっていました。発車後の車内放送では、前後のチャイムを何種類も流すサービス。停車駅が近づくと、デッキに移動してスピーカーにレコーダーを近づけて録音する愛好者が何人もいました。

 大宮駅で買った駅弁の昼食を済ませ、土合駅に到着したのは12時41分。ここで30分停車します。悠平と一緒に電車を降りて、地上まで往復してみることにしました。
 ホームには「ようこそ『日本一のモグラ駅』へ」の看板。その説明によると、地上の駅舎の標高は653.7メートル。下り線の地下ホームは583メートルで、その差は70.7メートルあります。エレベーターもエスカレーターもなく、改札口へ行くには、計486段の階段を上がらなければなりません。

 大阪にいたころ、悠平と一緒に巡った寺社の中で、最高で900段の石段を上ったことがありました。今でも悠平は、500段くらいなら顔色も変えずにスタスタと上ってしまいます。私はと言えば、最初の100段くらいは一気に上ったのですが、その後は、息は切れ、太ももが上がらなくなり、50段ほど上っては一休みの繰り返し。悠平はわたしのペースに合わせてくれました。一般の人なら10分ほどで地上に出るそうですが、15分ぐらいかかったと思います。地上に出て駅舎で記念撮影。大急ぎで階段を引き返し列車に戻ると、もう発車時間でした。駅全体をゆっくり見学しようと思ったら、1時間ぐらいは見ておいた方がいいようです。

 越後湯沢駅から関興寺までは、時間を節約するためタクシーで移動しました。鎌倉にある臨済宗円覚寺の末寺です。ここは「関興寺の味噌なめたか」と言い伝えられています。寺のホームページによると、戦国時代、上杉謙信の没後の家督争いの戦火に巻き込まれ、大伽藍をことごとく焼失しました。その際、上杉氏より寄進された大般若経典六百巻を味噌桶の中に埋めて守ったとのことです。以来、「関興寺の味噌には経典のご利益・功徳があるに違いない」と、味噌を分けてもらおうとする参拝者が後を絶たなかったとのことです。
※「関興寺の味噌なめたか」
 https://kankouji.coolblog.jp/service1.html

 興味深かったのは、寺に火縄銃などの武器が残っていることです。戦国時代、一帯の大規模寺院は石垣や掘割を備え、領主が他国へ兵を進める際には、補給拠点の役割も担っていたとの説明書きがありました。他国が攻め込んできた際には防衛拠点にもなったのでしょう。いろいろ見どころが多い寺で、悠平も仏像に手を合わせ、静かに過ごしていました。親切な住職さまに御朱印をいただき、味噌と寺の田んぼで収穫したという新米のコシヒカリをお土産に買いました。

 南魚沼の一帯には、ほかにも歴史の古いお寺が点在しています。「またゆっくり来たいね」と悠平に話しかけてみましたが、関心は既にもう一つのモグラ駅、美佐島駅に移っているようでした。

 関興寺から徒歩10分余り、上越線の石打駅からJRの列車で移動し、六日町駅でほくほく線に乗り換え、悠平待望の美佐島駅を訪ねました。

 ホームは地下2階ぐらいの深さでしょうか。土合駅に比べれば、使い勝手のいい駅だと感じました。地上の駅舎がきれいで、待合室が畳敷きの座敷になっているのがユニークでした。ただ、駅の周囲は本当に何もなく、秘境駅の趣です。一緒に列車を降りたほかの乗客は2人いましたが、わたしたちと同じく鉄道趣味の人たちのようでした。

 滞在10分余りで、六日町に戻る列車に乗りました。ホームへのドアは施錠されていて、普通列車が入線して停車するまで開きません。特急が運行していた当時は、通過の際の風圧が危険なため、このような運用になったようです。
 復路に乗った車両は、トンネル内で天井に花火や天空、海中などの映像が映し出される「ゆめぞら」でした。この日は花火を上映。なかなか楽しめました。
※「ゆめぞら」
 https://hokuhoku.co.jp/yumezora.html

 夕方、越後湯沢駅まで戻りました。悠平が小学生ぐらいまでは、夕食は自宅に戻って食べるようにしていました。中学生くらいからは、その土地のおいしいものを食べてから帰ることが増えています。悠平も「旅のごほうび」と呼んで楽しんでいます。テレビの旅番組で覚えた言葉のようです。ちなみに、わたしも便乗して「旅のごほうび」と言いながらビールを頼んでいます。

 新潟はおいしいものがたくさんあり、特に南魚沼はコシヒカリの特産地として知られます。一方で、つなぎにフノリを使い、つるりとした独特の食感で知られる「へぎそば」も魅力的です。あれこれ悩んだ末に、へぎそばにしました。悠平は、好物のマイタケの大きな天ぷらを堪能したようでした。帰宅後、悠平が「初めて新潟県に行ってきた」とyuheimamaに報告していました。行ったことがある場所を意識することが、地理的な関心の広がり、さらには社会性の広がりにつながればいいなと思います。
 越後湯沢は東京と新幹線で直結。駅前に温泉街が広がり、ちょっと熱海と似たロケーションです。冬はスキー客でにぎわうようですが、季節を選べばのんびりできそうに感じました。いずれ、yuheimamaも一緒に、泊りがけで再訪してみたいと思います。次はコシヒカリを食べます。

2023年 悠平17歳の夏休み~親として考えたこと

 yuheipapaです。
 9月も下旬に差し掛かろうかというのに、東京は暑い日が続いています。この夏も、家族3人で1泊旅行を楽しんだり、わたしと悠平で日帰りの乗り鉄と巡礼の旅に出かけたりしました。子どものころは、わたしが立てた計画をそのまま楽しんでいた悠平ですが、もう17歳の高校2年生。それなりに自分の意思を持つようになってきて、頼もしいと思うこともあります。来年は18歳で大人の仲間入り。一方で親は年を取っていき、以前のようには体も動かなくなっていくでしょう。休日の過ごし方も自分で決められるように、というのは将来に向けた課題です。悠平と一緒に出掛けながら、そんなことも考えるようになった夏でした。

 ▽2階建てに暮らしたい
 1泊旅行は神奈川県の湯河原温泉でした。品川駅からJRの在来線特急「踊り子」で1時間ちょっと。熱海のすぐ手前で、箱根や熱海ほど混んでおらず、のんびり過ごすには手ごろです。いろいろ調べて予約した旅館は、なかなかの穴場でした。
 部屋は蔵を改造したメゾネットタイプ。1階は8畳ほどの居間で、部屋の中の階段を上がって吹き抜けの2階に上がるとベッドが二つあります。悠平は生まれてからずっとマンション暮らしで、2階建ての家に住んだことがありません。階段を上がってベッドに行くのがよほど気にいったようで、「ここで暮らしたいねえ」と言って、わたしやyuheimamaを笑わせてくれました。

 風呂も広くはないのですが、専用の露天風呂付き。しかも源泉かけ流しです。源泉の温度が高くとても熱いのですが、疲れが良くとれ、気分もリラックスできるようでした。館内にはほかに無料の広い貸し切り湯もいくつかあり、湯めぐり気分も味わえました。特筆ものなのは魚が中心の食事です。地魚の刺身の盛り合わせは、思わず「おおっ」と声が出るほどの豪華さ。料理の一つ一つも派手さはありませんが、素材の良さがよく分かるおいしさでした。

 会計は相当な「お得」感がありましたが、ちゃんと理由があって、一般的な温泉宿のようなサービスはほぼ皆無です。送迎なし。チェックインの際はフロントで、普段着姿の女将さんから簡単な説明があるだけ。荷物も自分たちで部屋に運びます。食事は部屋食ですが、一品ずつではなく、基本的にまとめて運ばれてきます。売店もありませんし、クレジットカードも使えません。
 一般的な温泉宿のサービスを期待していると、到着早々、不快な気分になるかもしれません。実際にネットの口コミではそのような書き込みもありました。でも、悠平に合わせてマイペースで過ごしたいわが家にとっては、むしろぴったりのスタイルでした。

 ▽思い出深い横浜に3人で
 8月のある日、3人で横浜に遊びに行きました。わたし、yuheimamaがそれぞれに思い出深い土地です。
 わたしは30代の終わりの2年半、勤務先のマスメディア企業の横浜支局で働いていました。yuheimamaと結婚する前のことです。ある時期、業務で大きな困難を抱え、つらい時間が続きました。自分の生き方、ものの考え方が大きく変わった経験でした。悪戦苦闘した場所として、横浜は特別の地です。
 yuheimamaは小学生時代を神奈川で過ごしました。父親に連れられて横浜に来て、そのときに山下公園の氷川丸の近くで撮った写真が今、yuheimamaの手元にある父親、悠平にとっては祖父の遺影です。悠平に、会ったことがない祖父の話を聞かせながら、同じ場所でyuheimamaと悠平が並んだ写真を撮りました。

 わたしとyuheimama、悠平の3人で横浜を訪ねたのは初めてでした。こだわりの強い悠平は、日帰りの外出はわたしと一緒が基本です。yuheimamaも一緒に3人で、というのは泊まりがけの旅行にほぼ限られていました。「夏休み」という特別のイベント感もあったのかもしれませんが、悠平は柔軟でした。

 氷川丸を見学して山下公園から中華街を散策し、夕食はJR横浜駅に近いシウマイの崎陽軒本店のビアレストランでした。3人で過ごした楽しい時間で、わたし自身のつらい経験を上書きできたように思います。忘れられない日になりました。

 ▽新しい巡礼
 8月の終わり近くに、新しい霊場の巡礼を悠平と始めました。北関東三十六不動です。群馬、栃木、茨城の3県にある36寺の不動尊を回ります。第一番は群馬県の新潟県との県境にある、みなかみ町の水上寺(通称:成田水上不動尊)です。

 上越新幹線を上毛高原駅で下車。バスを乗り継いで15分ほどで水上温泉街に入ります。水上寺はそのはずれにありました。般若心経を唱えてお参りした後、専用の御朱印帳を買い求めました。その後はバスを乗り継ぎ、群馬県沼田市にある第二番の札所を参拝。渋川から高崎までは、JRのSL列車「SLぐんまみなかみ」にも乗ることができ、悠平は満足そうでした。

 この霊場は札所が北関東3県の広い範囲に点在しており、結願までは数年がかりになりそうです。悠平は「いろいろな電車に乗れそうだね」とノリノリです。御朱印帳が埋まり、巡礼が終わるころには、悠平は高校を卒業して、将来の進路を定めているかもしれません。その後はもう、親はどんどん老いていきます。悠平には、できる範囲でいいから、自分のことは自分で考えて決めることができるようになってほしい。以前から願ってきたことですが、いよいよ、そういう日が近づいているのだな、と、真新しい御朱印帳を手に思いました。

清掃一筋? 高等部2年の夏休み

 妻(yuheimama)です。夏休み真っ最中の悠平。放課後等デイサービスへの通所、学校主催の進路見学会への参加に加え、家庭では宿題と家庭学習に取り組み、yuheipapaとの乗り鉄やお出掛け、パソコンで気分転換をしています。

 昨年の進路見学会では就労移行支援事業所と就労継続支援B型の多機能事業所を見学し(「高等部の夏休み」を参照ください)、母はその後に居住地域の事業所を複数訪問したので(「初めての実習」を参照ください)、今年は将来を見据えて、企業2社を見学しました。1社は清掃業務で障害者雇用を実施している地元企業、もう1社は大手企業内で清掃、喫茶、データ入力等を行っている都心の特例子会社です。地元企業では、公共施設の清掃業務を請け負っており、支援員を手厚く配置し、地域共生を意識した取り組みをしていました。特例子会社は社員数も多く、さまざまな業務に取り組み、「人財育成」(人材ではなく、財産の「財」で人財)に力を入れている様子が見受けられました。悠平が通う高等部のOBが見学時の社内案内を担当してくださいました(この案内業務も研修の一環とのことでした)。いずれの企業でも、スタッフ全員に初めから障害理解があったわけではないのでしょうが、互いに学び合い、それぞれの役割を担って共に働く環境に魅力を感じました。

 特例子会社では複数の業務があったため、学校の作業学習で清掃を学んでいる悠平が、清掃以外の業務にも興味を持ったのではないかと思って感想を尋ねたのですが、悠平は「やっぱり清掃かな」と気持ちが揺らぐことはなかったようです。

 そんな清掃一筋(?)の悠平の宿題は家事手伝い。これまでも取り組んできた、朝の皿洗いや洗濯物干しに加え、今夏は作業学習で実施している窓掃除も取り入れました。窓を濡らして、スクイージーという道具で水分と一緒に汚れを取り除き、最後に乾拭きをします。夏休みに入ると早々に、スーパーの清掃用品売り場でスクイージーを購入し、チャレンジ。悠平の頑張りで窓がきれいになって、母、感激でした!

 2学期には1週間程度の現場実習が予定されています。職業訓練と社会生活に必要な学びを継続し、悠平なりの自立の形を模索しながら、引き続きサポートしていきたいと思います。

時間の学習も視覚支援で

 妻(yuheimama)です。高等部に進学し、社会生活で生かせる学習を以前より強く意識するようになりました。最近は時間の学習を継続しています。

yuheipapa.hatenablog.com

 ある日のこと…

母「1分は何秒?」

悠平「60秒」

(母:お~、60進法を分かってる!)

母「じゃあ、2分は何秒?」

悠平「200秒」

母「えっ!!!」(→分かってなかった…)

 単位の換算はややこしく、特に時間の場合は60進法なので、難易度が上がります。分からないままでも日常的にそれほど困らないかなぁと思いつつ、分かるに越したことはないので、まずはやってみることにしました。問題は教え方です。

「1分は60秒だから2分は60秒×2で120秒、3分の場合は60秒×3で180秒だよ」と教えた場合、その場では回答できても、3日後には確実に忘れます。目に見えない概念理解が難しいため、なぜ掛け算が必要なのか、言葉で説明しても分かりにくいのです。そこで、目で見て理解しやすい視覚支援の仕方を考えました。

 まず、無料で利用できるネット上の学習サイトから、針が書かれていない時計の図をプリントアウト。1枚には「1分=60秒」、もう1枚には「1時間=60分」と赤字で書き入れ、さらに何も書いていない時計を数枚用意しました。それらを用いて「1分は60秒だね。じゃあ、2分は60秒が何個分?」と、赤字入りの時計1枚と何も書いていない時計1枚を悠平の前に並べました。すると悠平「60秒が2つだから、120秒」と正解できました。「じゃあ、3分は?」と尋ねると、「60×3で180秒」と答えることができました。時間と分の単位換算の問題にも取り組み、何日も類似問題を繰り返しました。次に「1分30秒は何秒?」と応用問題を出題すると迷っていましたが、時計の半分に斜線を描いた図を見せると、1分=60秒に30秒を足せばよいということに気が付きました。こうして、分から秒、時間から分への単位換算はできるようになりました。

 次に秒から分、分から時間への換算に挑戦です。まず、「300秒は何分だろう」と問いかけたもののピンとこない様子。そこで時計の図を1枚ずつ、「60秒、120秒、180秒…」と一緒に声に出しながら机に並べていき、300秒になった5枚目で止めました。「60秒が5つで300秒だね。これって何分?」と尋ねると、「5分」と答えられました。「じゃあ、300秒は60秒が何個分って考えると?」と、5枚の時計を指さしながら問いかけると、「300÷60で5!」と正解できました。こうして類似問題を繰り返し、最近では、分から秒、秒から分等の問題を混在させても、解けるようになってきました。

 時間の単位換算ができると、乗り物好きの悠平が電車の所要時間を計算したり、好きなテレビ番組の2時間スペシャルや2時間半スペシャルを120分収録できるDVDディスクにダビングできるかどうかを自分で判断できるようになるのではと思います。

 悠平が5歳の時に家庭療育を始めてから早12年。時折、「私はいつまで悠平の家庭教師を続けるのだろう」と思ってしまうのですが、悠平が少しでも「できた」「分かった」という体験を積み重ねられるよう、その先にある生活が充実したものになるよう、もう一頑張りしなくてはと気持ちを新たにしています。